「解説」という訳語が美術館への誤解の始まり、かも

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突然だけど、絵とかダンスとか言葉が伴わないものをみるとき、「自分の心で感じろ」みたいなことを言われたことがないだろうか。そして、「だから、解説なんか読むな」「知識をいれて見るな」って。(それは、小説や映画とかでも一緒かな?)

佐々木健一『タイトルの魔力』では、美術館で作品と対峙した時にとるパターンを「タイトル等が書いてあるプレートをしっかりと読む=教養派」と「タイトルのプレートをわざわざ読まずに作品のみみる=審美派」にわけていたりするのだけど、(で、両方とも同じ前提――”芸術とは教養である”――から生まれている行動であって、差はないのだけど)”タイトル”ではなく、作品に伴う”解説”に対しても「教養派」か「審美派」かははっきりと分かれており、さらに言えばなんとなーく、暗黙の了解?として「審美派」を推奨されて、、というかそっちの方が「わかってる」感じに思われているような気がする。実際、私も長い間そんな意識があった。

でも、今、私は大学院の方では、美術館におけるモバイル・メディアの現代的意義というのを修論のテーマにしているのだけど、切り口としてはまさに「美術館にとって解説とは何か」「美術館におけるコミュニケーションとは何か」というところに行っている。そんでもって、ちょっと意外だったのは、欧米の大型美術館、特に現代美術館をいろいろと調べているとすぐにわかるのだが、美術館における「解説」って(もちろん館によりけりだが)すごく重要視されていて、「interpretation=解説」の専門部署があったり、専門キュレーターがいたり、私が重点的に調べているテート・モダンとか「解説はギャラリーのミッションの中心にある」なんて公式に言い切っている。それぞれの美術館で「解説戦略(interpretation strategy)」というものを持っていたりするのだ。これって、なんとなくフツーに日本で美術館で作品みてて、それこそ「心で絵を見るんだぜ」とかって青春時代を送った私にとっては、上手く言えないけど、「へえ、そうなんだ!そんなに重要なんだ!」というような驚きがあった※1

at Saatchi Gallery

at Saatchi Gallery

でも、昨日ふと、あれ、そういや変だ、ごっちゃになってる、と思ったことがあった。

それは、美術館における「解説」って訳語が微妙にずれてるんじゃないかってこと※2。や、厳密に言うと、もともと「解説」と言われてしかるべきものと、「解説」と訳されたものは非なるものなのにごっちゃになっているというか……。つまり、美術館における「解説」と訳されてる語の元の語は “interpretation(解釈)” なのだけど、「解説」という言葉のニュアンスで “explanation(説明)” と受け取られているのではないかということだ。

え、そうじゃないの、とこういう研究をする前の私なら思ってしまいそうなので、interpretation の訳語であるところの「解説」についていくつか引用してみる。

ある対象について、特にテクストと呼びうるような対象について、その意味を解きほぐし、理解すること。人の言葉を聞いて直ちに理解するようなことは解釈とはいわない。対象の側の難解さ、曖昧さ、もしくは多義性、そして解釈者の側の努力が、解釈と普通の理解を分ける契機となる。その意味で、解釈はつねに別の解釈の可能性をはらんでいる。※3

解説が目的とすべき点(by Tilden)1977年
(1)展示されているか説明の対象となっている事柄を観光客の人格とか体験の内部に存在するものに何とかして関連づけられないような解説は、どのような解説であろうと、効果がない。
(2)生の情報は解説ではない。解説は情報に基づいて新しい事実を閉めることであり、情報と解説は全く別物である。とはいうものの、解説は全て情報を含んでいる。
(3)解説は、一種の芸(アート)であって、人目にさらされる材料の種類が化学、歴史、建築などの別にかかわらず、多くの技を組み合わせたものである。技である以上どんなものでもある程度は教え込むことができる。
(4)解説の主たる目的は教育ではなくて、刺激を与え、考えさせることである。
(5)解説の狙いとしては、部分ではなく全容が分かるようにすることであって、また、解説の対象である人物の一側面でなく全人格に取り組まなくてはならない。
(6)子供(仮に12歳までとしよう)に対する解説は、大人相手の内容を簡略化して済ませるべきではなく、根本的に異なる手法を用いなくてはならない。一番良い結果を出すためには、別のプログラムを作らなくてはならないであろう。※4

人の数だけ「解釈」がある。美術館はあるひとつの「解釈」を提示しているだけ。本来、美術館における「解説」とはそういう意味である。「解釈」と理解していればそういうふうに(まさに)解釈できる。けど、「解説」と言われると、なんか違う感じ、無味乾燥の、つまらない、お仕着せの、一方的のという感覚=「説明」に近いもの、があるのではないか。

ためしに、英英辞典で「interpretation」と「explanation」を調べてみよう。

[Longman Dictionary of Contemporary Englich]

  • interpretation
    1:the way in which someone explains or understands an event, information, someone’s actions etc:
    2:the way in which someone performs a play, a piece of music etc and shows what they think and feel about it:
  • ★explanation
    1:the reasons you give for why something happened or why you did something:
    2:a statement or piece of writing intended to describe how something works or make something easier to understand

つまり、「interpretation」は「誰か=人」が何かを理解する「方法」であるのに対し、「explanation」は「何か=物」が何故起こったのか、何故やったのかに対する理由、あるいは「何か=物」を「理解しやすくすること」で、見ているところが全然違うのだ。

at Saatchi Gallery

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お次に、日本語で「解説」の意味を調べてみると、

  • かい‐せつ【解説】
    [名](スル)物事の要点・意味などをわかりやすく説明すること。また、その説明

「物事をわかりやすくすること」……つまりexplanationに近いニュアンスがある。

ちなみに「解釈」は、

  • かい‐しゃく【解釈】
    [名](スル) 1 言葉や文章の意味・内容を解きほぐして明らかにすること。また、その説明。 2 物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること。

うん、interpretationはやっぱり、、「解釈」だよね。

んー……、訳書とかでも普通に「interpretation」にあたるところは「解説」と訳されているし、なんか今の今までまったく気にかけてなかったけど、「解説」と呼ぶこと自体が、美術館における「interpretation」を「わかりやすく説明すること」と誤解させやすくなっているのではないか。それが、「解説を読む=自分の目で見ずに(権威が与える)”レッテル”を鵜呑みにすること」というふうな風潮につながっているのではなかろうか。先日、論文関係で取材した方が「展覧会をみるとはどういうことなのか、というところから見直さないと、日本では解説ツールのポジションや意義は変わらないかもしれない」とおっしゃっていたのだが、それもこのあたりにつながっているのではないかと。。と用語の定義のところなので、めちゃめちゃ気づくの遅いんだけど……今更そんなところに気づいたわけ。。(遅)

美術館における解説を「解釈」と捉えるだけで、美術館という場所の意味やパワーは突然に明確に、強くなる、と、今の私は思っている。なぜならば、それは作品を通じて私たちの心に生まれた「何か」をさらに大きく、鮮やかにする誘発剤のようなものだから。しかも、かつては、権威が出す「(ひとつの)解釈」が「正解」とされていたけど、今は違う。「解釈」が別の「解釈」を呼び、様々なバックボーンや個性によってなされる「解釈」が許容され、それらがぶつかるところに、(理想的には)コミュニケーションが生まれる。

このような立場から、作者の権威を否定して多義性を積極的に評価する立場への移行がなされたのも、文学作品というものについての考え方が変化したからである。今や作品は、予め定まったメッセージを伝達するためのものではなく、無意識に表現される意味や、作者が意識していなかったにしても、作品から自ずからに構成される意味を含むものとなる。すると、解釈は多元的・多層的となり、生そのものの表現、時代精神の表現、民族精神の表現、作者の精神的個性の表現、その作品世界などを焦点とする解釈が生れる。これらはどれも他を排除するものではなく、またそれぞれにおいて多様な見方や方法がありうる。(中略)解釈の変化や複数の解釈という考え方は、個々の解釈から整合性や正しさの主張を奪うものではないし、ましてや、解釈間の葛藤を回避したり否定したりするものではない。※3

もちろん。
作品を何も知らないでみた時の衝撃もすごく大事なことだと思っている。それがないなら、もう別に”アート”とかって見なくていいかもしれないし。でも、そこから沸き起こる感情と、作品、あるいは作品たちをとりまく背景、ストーリー、そして技法や社会情勢なんてものを含めた解釈、それらが複数交わる「場所」として美術館があるとすれば、それは、非常にパワフルな場所だと、私は思う。まさに、以前引用した比較、会話、交渉、価値付け、判断、そして不和の場所。」「知識のための場所ではなく、経験を生み出す場所」。

at Saatchi Gallery

at Saatchi Gallery

このあたりは、すごく丁寧に話すと、そもそも私がまだ会社に勤めていた頃、この arts marketing.jp を立ち上げた動機のひとつにもつながってくるし、全然違う切り口としては、私が仕事でずっとやってきたし、個人的にも常にその恩恵を得て興味をもってきた「インターネットでのコミュニティ」の話にもつながってくる(まじでー)。つまり、なんかいろいろ全部つながってくる。
でも、丁寧に話すといくつもエントリがいるので、おいおい書いていこうと思う。

んでも、なんか、まとまらなくなってきたので、今回はこのあたりで。もちっとライトなことも書きたい。。

※1:もちろん、欧米でも「絵は心で見るんだぜ」的な意識はすごくある。(と、読んだことがある)
というか、その根幹にあるもの(「教養主義」とか「美学」とか)はそもそも西洋の概念だし。

※2:これも、「美術館というシステムは輸入品だよね」という視点から見ている。ので「訳語」という表現。

※3:佐々木健一『美学辞典』(1995)「解釈 interpretation」の項より

※4:編: M.K.スミス、M.ロビンソン『文化観光論〈下巻〉―理論と事例研究』(2009)Laszlo Puczko 「文化観光における解説」より

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