「未来への希望をもっていない人は中身のないメッセージしか提供できない」

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9月に入り、来週に迫った専攻内修論中間発表会の準備でいっぱいいっぱいの日々。

いつも発表会の直前になると、これが終わったらちゃんと計画立てて毎日こつこつやろうと思うのだけど、結局いつも直前に慌てるのよねえ……。が、昨年末から数えると4回目になる発表会も今回が最後(論文合格後に公開でもう一回あるけど)、あとは年末の論文提出までゴーゴーになるので、もうそろそろ気を抜いている暇はなさそーです。

※ ※ ※
そんな発表会準備の日々の中、読んでいた文献でいいなあと思う文章があったのでさくっとエントリ。

とある専門誌に掲載されていた「解説の意味(”The Meaning of Interpretation”※1)」という文章の最後の部分。以下、ちと長いけど抄訳・意訳します。

何よりも、我々は解説者とは「希望」を提供する人だと信じている。世界は、驚くほどの美しさと素晴らしい喜びにあふれている場だが、同時に環境は破壊され、かつ大きな苦しみの場でもある。私たちは卑劣なテロリズムと英雄的な慈悲の真っ只中に生きている。(このような時代に)もしも私たちが、恐怖心や無力感、悲観的な考えにとらわれてしまったら、身動きがとれず何も出来なくなってしまうだろう。希望とは必要不可欠なものなのである。(中略)

解説者が希望を伝えるためには、まず人々と分かち合う希望を持っている必要がある。未来への希望をもっていない解説者は中身のないメッセージしか提供できない。そういう解説者は、人間が持つよりよい方向に物事を変える力、その力を信じることから来るモチベーションと情熱が欠けているのだ。

もう一度言うが、本当に希望は欠かせないものなのだ。個々人、そして社会にとって最も大きなリスクは将来に対する希望を失ってしまうことである。自分たちの生活やコミュニティ、世界をよくすることができるという希望を失ってしまうことは、無関心、怒り、絶望へと至らせる。しかし解説者は、豊かで満たされた人生になるよう人々に希望を与えることができる。そして、次の世代が繁栄した美しい世界を受け継ぐことによって、未来の希望をも提供することができる。過去歴史の中で讃えられてきた人間の美しい高潔さや自然の複雑な美しさは、希望を呼び起こすことができる。そしてこれらは解説者のツールなのだ。

だから、解説とは深遠な贈与のプロセスなのである。このプロセスは多くのニュアンスを持ち、正確な定義をすることができない。が、それこそ解説の神秘なのである。我々の意見では、解説なの正確な定義は「わからない」というのがしっくりくる。なぜなら、贈与とは定義に縛られるのではなく、心からの信念より来るものだからだ。

以前のエントリでも書いたけど(「美術館と解説について思ったこと」)、修士論文のテーマは美術館においてモバイル・メディアを活用するいくことが(収益性や流行りを超え)いかに館のミッション遂行とリンクするものなのか、なのだが、「解説(の重要さ)」という切り口で論じようとしている。で、先のエントリでも書いたとおり、「美術館での解説」というと「余計で無味乾燥な説明」ぐらいに捉えられないこともあるようだけど、しかし本当は現代の美術館の社会的意義とは何なのかとも通じる、とてもとても深いテーマだと感じていてそれを伝えられたらいいなとも思っている。だから、上の文章を読んだ時、あっ、いいなあ!と感じたのだ。

この文章を読むと解説って無味乾燥どころか、とてもパーソナルで、解説する人の個性や信念が出てしまう行為であるということがとても伝わってくる。そして、過去の集積でしかない美術館(広く捉えればミュージアム)が何故、今の時代もなおなくてはいけないものなのかも……。今までの歴史の中にある、「過去、現在、未来も変わらない人が持つ可能性や、凄さや、美しさの欠片」を体験することで、自分自身が変容していくこと。それが、美術館のある意味だと思うし、解説はそのきっかけを与えるものなんだなあと。

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と、熱く解説のことを語ってみたところで、「解説」「解説者」と言われてもなんだかとんでもなくニッチで専門的なことのようで……という感じかもしれないが、私は解説とは広くコミュニケーションのことだと考えていて。(それだから、「解説」以外のもっとしっくりする言葉を使いたいんです、ほんとは。見つけられてないけど)人はコミュニケーションをとる時に、「(自分の背景や経験によって)意味付け」をせずにはいられないが、意味付けるとはすなわち解釈することだから。発信と解釈の連続で、私たちはいろいろな人、ものとコミュニケートして生きている。そういった意味では、常に私たちは「解説者」でもある。

そういう視点で、上の文章を読んでも、なかなかにすてきな文章だと思います。「解説者」を普通に「人」と読み替えたりしてね。(んだから、エントリタイトルは「解説者」を「人」と入れ替えてみた)
こういうのを、がつがつと文献を探している中で読めるとちょっと嬉しい。「希望」とかってもう様々な立場から消費され尽くした言葉で、現代日本ではもう安易に口に出すのも憚られる言葉かもしれないからこそ。

さて、今日はこれから教授と修論の相談だー。いまだに、論文構成自体にも不安が残るし、うううなんかいい突破口が自分の中にできるといいな。どきどき

※1:Beck, Larry, & Ted Cable. (2002). The Meaning of Interpretation. Journal of interpretation research. Vol7 No.1.

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