人がメディアに向かう気持ちは、それが洞窟の壁であれネットであれ変わらない――「残したい」ということ

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今日は久々によしなしごとを書きます。前半、日記、備忘録みたいだけど一応、最後はアートとデジタル・メディアの話に強引につなげる予定(笑)

生身の舞台に、突然映像で現れた死者

きっかけは今日、たまたま、クィーンの “I want to break free” のプロモーション・ビデオを目にしたことに始まる。

歌は知っていたし、なんとなく PV も観たことあるつもりだったのだけど、フレディ・マーキュリーが間奏シーンで『牧神の午後』の牧神に扮して踊っていることは初めて知り、そしてすごく驚いた。驚いたついでに、いろいろなことを一気に思い出してぐるぐるしてしまった。

実は、”I want to break free” と言えば、私にとってはクィーンの曲という以上に、『バレエ・フォー・ライフ』の「あの」曲である。

『バレエ・フォー・ライフ』とは、振付家・故モーリス・ベジャール氏による 97 年初演のモダン・バレエの演目。92 年にエイズで他界した、ベジャールの世界を具現化する最高のダンサーであり、おそらく彼の生涯を通して最愛の人であったジョルジュ・ドン、そして、91 年に同じくエイズにより亡くなったフレディ・マーキュリー、その 2 人へのオマージュ、追悼として作られたものとして知られている。そして、全編の 80% 程度をクィーンの曲、残りをモーツァルトの曲で構成しているというちょっと変わったバレエだ。

この中で “I want to break free” は、ラスト(最後の曲は “Show must go on”!!)から 2 番目に使われている。そのシーンが、私にとって、そしておそらくほとんどのベジャールのファンにとって痛烈であった。なぜかというと、そのシーンでは、それまで踊っていたすべてのバレエ・ダンサーが両脇にひき、そして、真ん中に置かれたスクリーンに、えんえんと亡きジョルジュ・ドンが時に狂ったように踊る映像が流されるのである※1

2006 年にこの舞台を観た時、私はやや興奮気味に「あの人の生きた証を残したい。『バレエ・フォー・ライフ』」というエントリを書いたのだけど、偶然にもそれはこのブログでアーカイブしてある最初のエントリ。つまり、今ネットに残っている一番古い私のエントリがこのネタだったりする(今は非公開中)。5 年も前に書いた文章なんで、自分じゃないみたいではずかしい。

ここにも書いたが、このシーンの何が心に突き刺さったかというと、生身の人間のパフォーマンスという、瞬間瞬間生まれては消えていくという縛りがある「舞台(時間)芸術」の中にあって、ベジャール氏があえて「映像」――消えていくものをとどめる、そして幾度も再生しようとする――を使って、死んでしまった彼を舞台上に連れてきてしまったことだった。その「禁じ手」感は、もちろん彼はよーくわかっていたはずで、それでもそれをやらざるを得なかった彼の想いに、たぶん、多くのファンが心を絞めつけられるような感覚をもった、と思う。(そして、それゆえ批判する人も大勢いるだろう)92 年のドンの死後相当に落ち込んだという彼が、5年の歳月を経て再生の意味をこめて作った演目に、こんな歌詞の曲とともにドンを登場させたという決断に。

でも人生は続いていく
君が側にいない、いない、いない、そんな人生に慣れることができない
一人では生きたくない
神様は知っている 一人でやっていかなくちゃいけないこと
だから、わかって、僕は自由になりたいんだ

ちなみに、私が冒頭で、「フレディがこの PV で牧神を演じているのに驚いた」と書いたのは、”I want to break free” がかかる中流れる映像の中でドンが踊っているのが『ニジンスキー・最後の道化』のニジンスキーであり、ニジンスキーと言えばスキャンダラスな牧神役でものすごく有名なダンサーだから。もちろん、ベジャール氏はこの演目を作る時に当然この PV みてるはずなんで、なんや、そういうふうにリンクしていたのかと。

常に「残したい」という欲求に寄り添ってきたメディアというもの

こうして昔に観た舞台のことや当時の感情を思い出す一方で、私は改めて、当時のエントリのタイトルにも書いた「生きた証を残したい」という欲求とメディアの切り離せない関係を思った。

このシーンに関して、観た当時もぼんやり思ったし、今思い出してもすごいなあと思うのは「映像」というものの力である。亡き人を転写し、永遠にとどめておこうとするもの。「生きている人×瞬間」な舞台に「ここにいない人×永遠」な映像が”混入”されたのは、すごくインパクトがあった。

そして、映像だけでなく、「メディア」と呼ばれるものは全部、その瞬間に存在する目に見えるもの見えないものいっぱいを転写し、時に永遠にする力がある。気がする。

「JR 展 世界はアートで変わっていく」(ワタリウム美術館)より

「JR 展 世界はアートで変わっていく」(ワタリウム美術館)より

基本的に「ずーっと未来永劫存在する」というのはたぶんこの世の中には心の中も含めない。この一瞬に私が感じたこと、考えたことは感じた、考えたその瞬間から消えてなくなる。今眼にしていることは、その場を離れれば消えてなくなるし、ずっといたとしても環境の変化は必ずや訪れる。そして、周りにいる人たちも自分も、いつかはいなくなる。

だからこそ人はたぶん、なくなっちゃうもの(中でも大事なものは特に)を、言葉でも絵でも音楽でもどんな形でもいいから「残したい」という気持ちが働くんだろう。それはきっと、1 万年も 2 万年も以上前に、私たちの遠い祖先がアルタミラやラスコーの洞窟に、無数の絵や何十、何百というの人間の手形を残した先史時代から変わらない。細かい気持ちまではわからないけど、でもきっと彼らも何か「生きた証」を残したくて、洞窟(とその壁)というメディアにぺたぺたとその想いを託したはずだ。

そして、さらにそこから数千年経ち、ようやく文字とそれを書き付けるメディアを手にした時、それまで言ったそばから消えていく「言葉」しか持たなかった人たちは、「想いの可視化と永遠化」ができることに喜び、そして時に涙したのではないだろうか。たとえば、じいちゃんは死んだけど、元気だった時に書いたあの言葉は残っているということや、自分はいずれ死ぬけれど、あの人に向けて想いを綴ったあの言葉は残るんだというようなことに。

まあ、「生きた証」とかっていうと大げさだけど(んでも、数年前しょこたんだってブログを書く理由をそう言ってたからな)、でも生活の中で消えてなくなっちゃうものは、自分が今思ったことを筆頭にものすごくいっぱいあるから、だからそれを残したいんだよね。
そしてその中で、周りの人、さらに知らない人にも伝えたいなと思うものも出てくる。
さらに思い入れや確信が強くなると、同時代の人だけでなく未来にも伝えたい、という欲求がわくこともある。
そういう欲求を満たしてあげることで、人は時に安らぎとか癒しとかを得ているのかも。

なんにせよ、
メディアというものは、そういう太古からの人々の欲求に常に寄り添う形で存在してきた、と思う。

心を動かされた!
→言葉とか絵とか音楽にしたい
→残したい
→いろんな人と共有したい
→未来まで残したい

人を「メディア」に向かわせるこういう気持ちは、目の前にある「メディア」が洞窟の壁であれ、インターネットであれ同じなんだろうと。

「アートとデジタル・メディア」

さて。
こんなに大風呂敷広げてマジすか!って感じになってきたけど(笑)。

  • アートとデジタル・メディア。
  • 芸術団体によるデジタルや IT の活用方法。その戦略。
  • 世界中にいる「オーディエンス」とのコミュニケーション。コミュニティの形成。
  • 変わりつつあるアートの見方、関わり方。
  • さらには、WEB を通じた資金調達。

そういった、ある種「今流行り」のものを、このブログでは取り上げるし、私のほぼライフワークでもあるのだけど、これらも根元までたどっていけば今日書いた「残したいという気持ちとメディア」の話はつながっていると思う。

そういう時代なんですから、ソーシャル・メディアを使ってコミュニケーションしてかないとだめですよね、と言う視点は確かにあるし、それも一理あるのだけど(以前書いた「デジタル・オーディエンス」の話はそちらの発想に近い)、だからといって闇雲に利用していきましょう、とか全然思わないし、ソーシャル・メディアマンセー!みたいなのも苦手。

なんでもそうなので当然なんだけど、何故、ソーシャル・メディアなのか?を考えない使い方は、たとえ「成功事例」を真似しても結局失敗する。

そうではなくて、今日書いたような、それまで文字とメディアを持たなかった大昔の人が感涙したに違いないような「力」にちょっと想いを馳せること。

直島にて

直島にて

その方が、それぞれに合ったやり方を導き出せると本気で思う。

特に芸術は、それ自身がメディアに転写した大いなる力、精神、みたいなところがあるから。

  • だから、そもそも持っている力や精神を、合った形で”メディア”にのせることで人に届きやすいように増幅してあげること
  • 届く人をもっともっと増やしていくこと
  • そして、届いた人の「心が動いた!」を残せるような”メディア”を、届いた人自身にそっと差し出してあげること
  • それにのってきたいっぱいの「心が動いた!」をキャッチすること
  • キャッチしたものをまとめて可視化してさらに人に届けたり、ひとつひとつと対話していくこと。
  • そういうことを考えれば、自然とそこの団体なりアートに合った「(ソーシャル・)メディア戦略」になるのではないか。

なんか何年も前から、アートとはまったく関係ない仕事で WEB やマーケティング、プロモーションと関わってきた頃から、私はそんなことを考えてやってきたつもり。

なので、次回からまた調査結果は~とか事例は~とかエントリしていくと思うけど、私としては根底にこういう考え、言ってみれば「(そういう時代だから使わないとだめですよね、という受動的なものではなくもっと能動的な)デジタル・メディアへの期待」があるということをちゃんと書いておこうかなーと考え、今回はこんな形にしてみました。

まあ、ほんとにたまたまクィーンの “I want to break free” をみて、びっくりしていろいろ思い出した、っていうだけなんだけどね。最近、ブログ書こうと思った時にエントリネタが転がりこんでくることが多い! 素晴らしい。(単に、思いつかないから転がり込んできたものに食らいついているだけかもだけど笑)

※1:動画みつけた。これです。この間は、「バレエの舞台であること」をやめているんですよね、完全に。

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