昨日のエントリを書く際に、ICAのアーティスティックディレクターの話を聴いた時のメモを読み返したのだけど、
ああこんな話題もあったっけ、これって今の私の関心でもあるなあということがあったので、つれづれに思うことを書いておく。
※ ※ ※
それはたしか、後半にスピーカーとして出席していた森美のキュレーターからの問題提議で、
「現代アートが民主化されたゴールはどこなのか?」
という話。
と書くと、なんだかえらくカタイ話のようだけど、
つまりは一方的にアートをオーディエンスに見せる時代から、オーディエンスとのインタラクションやコミュニティ、見るだけでなく参加することが重要になってきている時代の流れの中で、
その行き着く先は
「Everyone is an artist」=みんながアーティストである
なのか?
それとも、やはり圧倒的な才能がある送り手がいて彼らが生み出すものを受ける構図であることは変わりないのか?
ということ。
私のメモには、これぐらいしか書いていなかったので、
そこでなんらかの主張や発展した議論はなかったと思うのだけど、
当時(今年の3月末)もなんか気に掛かる話だったし、
大学院でクリエイティブ産業・社会のことや著作権のことを少しかじった今はなお、個人的に非常にひっかかるネタである。
※ ※ ※
上に書いた議論は、現代アートの中の話で語られていたけど、
もっと広い視点で見ても、ネット社会になったことで、実際は既に「everyone is an artist」の世界になっていると思う。
そして、一部の限定された環境にある人のみでなく、
みんなが自由に何かを言い、書き、描き、奏で、演じ、それをローコストで世界中に発信できる社会は素晴らしい。それには異論はない。だからネットの世界での仕事も楽しかった。
でも、同時に私は、「圧倒的な才能」が大好きなのだ。
私が思う圧倒的な才能、とは、「逆立ちしたってかなわない生まれもってのその人の才」プラス「それで生きていく努力、覚悟」のこと。
前者だけでも、たぶんダメなのねきっと。
前もエントリで書いたことがあるけど、私が一流と呼ばれるバレエやダンスが大好きなのは、片手間に(トップで踊るような)バレエダンサーになることはできないからであり、普通の人生を送るかわりに踊ることに人生を注いでいる彼らをレスペクトするから。
踊るための生まれ持った才能はもちろん必要で、でもそれだけで名を成せるわけでなく、それとともに日々訓練することを選ぶ、つまりそういう人生を送る、と決めないとなれないから、そこまで含めて「圧倒的な才能」であり、そういうところが私は好きなんだと思う。
んだから、
感じ悪いのを承知でいうけど、
一方でみんなが世界中に発信できる世界はすばらしいー、ネットまんせーだよねーと言っておきながら、
同時に、内輪での「わーすごいねー」的な”表現”は、私はほとんど興味がないのである。(※1)
なので、個人的な本音は「everyone is an artist」な世界なんてまっぴらなのである。(!)
アーティストというものに対し、特別な想いがありすぎるのかもしれないし、
古い時代の考えに囚われているのかもしれないけど、
でも、みんながアーティストになんてなってくれるな、
アーティストっていうのは、常人ではなれっこないものすごい人(←笑)がなるべくしてなるんだよ!という想いがめちゃめちゃある。
でもそれって、時代の流れとしては、大きくみても、小さくアートマネジメントの世界だけ考えても、かなり逆行した考えのような気もしていて、
そういう自分のいかんともしがたい「アーティストエリート主義」なところはどうしたもんかなあ、とも思っていた。
※ ※ ※
でも、最近、自分の中で思うことがある。
それは、
「創造性を大事にする」ということは、万人が表現できる、その権利を守る、促進するという方向性とともに、創造に生活をかけている人たちに対しレスペクトすることだ(※2)
ということ。
創造に生活をかけている人、という表現は、自分の中ではまだ野暮ったい、芯を捉えた言葉じゃないんだけど、いいのが思いつかないので暫定的にこうしておくとして。
なんというか、、、
創造性が大事ー、今はクリエイティブシテーの時代よーと政府自ら言っておきながら、
アーティスト(ここでいうアーティストとは芸術を生み出すことに従事する人)に対し関心があまりにも向いてないんじゃないの?
というようなことが、気になっているの。
以前のエントリで、
ここでいう「創造性」とは、
生み出す「人」と、それを社会にとって価値があるものだとする「価値付け」、2つのプロセスがあって成り立つもの、という部分。
つまり、生み出す人がいるだけでは不十分で、さまざまな表現やチャレンジを認め、社会の中に存在させていくという体質を都市や地域が持っていることが重要ということ。
というふうに書いたけど、
「価値」には2つあって、「対価」としてあらわれる価値と、「称賛」としてあらわれる価値があると思うのね。(この「称賛」という言葉もちょっとうまく言えてない気がするけど、こちらも暫定的に。)
でも、今は「価値」=お金になる、産業になる、としか考えていないんじゃないんかな、って政策が多いような気がする。※例は割愛。いつか改めてエントリするかも
それももちろん大事だけど、でも順番としては、「創造されたもの」と「それを作った人」に対し、それを認めること・・・「称賛」があって、初めて「対価」というのは発生されるのだと思う。
その「称賛」のシステムつくりというか土壌作りというか、そういうのが抜けちゃっているんじゃないかと。
※ ※ ※
ん~、なんか話がそれてきちゃったな。
アーティストの話と、ネットにおける「一億総表現社会」の話と、クリエイティブ社会の話とが入り混ぜちゃったからややこしくなるし、いろいろ定義をきちんとした中で話さないとかなり一人よがりで危険だとも思うけど、
でも、これこそクリエイティブ社会の文脈の中で、経済学ではないアートマネジメントの視点で言えること、かつ私の前職であるネットの世界の話も関わってくるということで、少し踏み入って考えてみたい。
でも、頭が整理されていないので、踏み入って書いてみるのは次回、ということで(笑)
(※1)
最近、一部ネット上で梅田氏のインタビュー記事が話題(炎上?)になっていたけど、
これを読んだ時にまさに私は完全に梅田氏的嗜好なんだなと思った。
一流の人大好き。一流の人の何かに触れるだけで嬉しい。彼らのすごさをみんなに知って欲しいと思ってしまう。その気持ち、すっごいよくわかる。
ネットが好きなのは、今まで権威やシステムに阻まれて世に出て来れなかった「すごい人」が出てこれる可能性を秘めているから。そうなんよね。すっごいわかる。(笑)
日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編)
これに対していろんな人がいろんなこと言ってたけど、私がなるほどと思ったエントリはこれ。
まあ、これも梅田氏側、な意見なんだけど。
梅田氏と「アテネの学堂」 – Tech Mom from Silicon Valley
バーチャル・アテネの学堂が成立するためには、ネットというツールだけでは不十分で、背後に「にわかには役に立たないけれど、知識を共有して議論する過程はかけがえのないものである」という思想が必要で、そのためには参加者も、十分な数と質をもって必要だ。日本では、「図書館」や「博物館」の外側の仕組みだけ取り入れたけれど、その中にはいるべき「知の共有の大切さ、それを守るための重大な決意」が欠けている、という友人の言葉に賛同して、(以下略)
(※2)
こう言った時にすぐに、「創造に生活をかけている人」=プロ=コンテンツ持っている人=著作権守れよブーブーという話になりがちなんだけど、それはひとつの側面でしかない、と思う。
あ、もちろん著作物に対する権利は守られるべきというのは当然で、使う方が意識を高くする必要はもちろんある。私ももっと意識を高くもたなくてはとはんせいちゅ
しかし、たとえばアメリカのフェアユースの概念のように、(日本にフェアユースを適応するかどうかは別問題として)著作者側だったりコンテンツを持っている側の意識の変革も必要だと思っている。
(※1)で引用したブログの中にもこんな記述が。
「著作権」と対立する概念は、「サブカル・コンテンツをタダノリして見られる権利」ではなく、「知の共有と流通」という人類的な価値であって、それが「フェアユース」とか「パブリック・ドメイン」という形になっている。
http://artsmarketing.jp/archives/897"Everyone is an artist"?http://artsmarketing.jp/wp-includes/images/crystal/default.png*arts marketing.jp